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七月十三日(土曜日)
山立て、鴨川の川床、試し引き...

京都の街は祇園祭一色
十日からの鉾立は十二日までで終わり四条通には鉾が立ち並び、各山の組み立てが山鉾町の各所で行われていた。

まさに、町は祭の支度で大忙しという雰囲気が満ちている。
七月十四日(日曜日)
山立て、立ち並ぶ露店の屋台、かき氷、焼き鳥、お好み焼き、的当て...
夜店の風景、屏風祭、祇園囃子、賑わう路地

祭は今日から本番で、通りには人があふれ四条通りも烏丸通りも歩行者天国になっている...
七月十五日(月曜日)
歩行者天国、棒振り囃子、町家公開、屏風祭
賑わう一方通行の室町通りと新町通り、浴衣姿の人々が集まる...

接近する台風の影響で風が強く曇りがちの天気だが雨は時折パラパラとくるだけで予想以上に安定している。
しかし、台風を避けるためか、せっかく飾り付けた山を骨組みだけに戻すところもあった。
祇園祭
八坂神社の社伝によると、869年ころ京(みやこ)に疫病が流行し多くの死者がでたそうです。
当時は疫病は神や怨霊の祟りであると考えていたようなので、これを鎮めようと民衆が朝廷の指示でなく自主的に悪霊を鎮めようと始めたのが「御霊会」(ごりょうえ)という祭事で、この時に行われたものを祇園御霊会と呼び、祇園祭の起源となっているそうです。

その時の祇園御霊会は、当時の日本の諸国の数に合わせて66本の鉾を造り、疫病の神とされる牛頭天王(ごずてんのう、後に素戔嗚尊(スサノオのミコト)と同一視されるが、元は別物らしい)を祀って御輿を神泉苑に送ったのが最初とされるそうですが、歴史資料上では970年が記録上の最初とされているとの事です。
もっとも、970年のものは官祭として朝廷の行う行事であったようなので、それ以前に民間の御霊会として行われていたと考えられるそうです。

応仁の乱以前は山鉾の数が58を数えていたそうですが、戦により都が焼け野原となり祭は一時期中断されていたようです。
1500年に祭は再興され、この時より山鉾の巡行順がくじ引きで行われるようになり、現在に至っているそうです。
なお、長刀鉾だけは特例として「くじ取らず」で先頭を行くことになってるそうです。
長刀鉾の長刀は疫鬼を切るという意味もあると聞き及びます。
山鉾巡行の前夜祭としての宵山や屏風祭が定着したのは18世紀半ば頃と言いますから、江戸時代後期からの習わしと言えます。
1788年には天明の大火により、山鉾の大半が焼失、更に1864年にも大火により多くの山鉾が焼失して、現在に至るまでも復興されないものも多くあり、それを焼山と呼ぶそうです。

現在の日程に行われるようになったのは1877年(明治10年)の事で、それまで使われていた太陰暦(旧暦)が使われなくなり、新たに太陽暦(新暦)が採用された事に合わせての事だそうです。
現在の巡行コースに定まったのは1961年からの事で、それまでは時代によって異なるコースを通っていたそうです。

蘇民将来之子孫
祇園祭を語る上で欠かせない言い伝えがある。
言い伝えによって、牛頭天王であったり素戔嗚尊(スサノオのミコト)であったりするが、基本的な話は同様でした。
結婚のために南の龍宮へ向かう牛頭天王が日没となったので、その地域の長者であった巨旦将来(こたんしょうらい)の家に一夜の宿を求めるが断られる。
次に貧しい蘇民将来(巨旦将来の兄)の家を訪ねると快く歓待されたと言う。
その時に、牛頭天王から蘇民将来は「お前とお前の家族は茅の輪を身に付けておけ」と言い残して茅の輪を渡して去った。
その七年後に牛頭天王は帰路この地に妻子を連れて現れ、巨旦将来の一族を根絶やしに殺してしまうが、蘇民将来とその家族は茅の輪が目印になって助かったと言う

「備後国風土記」では、牛頭天王がスサノオのミコトとなり同様な話がある。
こちらは、より具体的な話になる。
北の海に居たという武塔天神(むとうてんじん)という神が南の海の神の娘の処へ夜ばいに行こうとして日が暮れたために一夜の宿を巨旦将来、蘇民将来の兄弟に請うたが、その流れは同じで貧しい蘇民将来の家で貧しい生活ながらも歓待され、数年後に家族を連れて恩返しに現れた武塔天神は、自分は実は素戔嗚尊(スサノオのミコト)であると告げ、これから巨旦将来の一族を根絶やしに殺してしまうが間違えてはいけないので、蘇民将来に家族には茅の輪を付けさせろと告げる。
その夜、素戔嗚尊の子供達(疫病の神)が暴れ回り、疫病で皆が死んでしまうが蘇民将来の家族だけは助かった。

そんな言い伝えからか、玄関に我蘇民将来之子孫也というお札を貼っておくと疫病が除けて通ると言われるようになったようです。
東南アジアの方でも、同様な話があるそうなので、原典はそちらなのかもしれません。(少なくともソミンとは日本人の名前ではありませんね)