[エピローグから始まるプロローグ1]下山道




日の出に気づかず登る人たち もう、どれくらい同じような所を歩いているのだろうか...
どこまでこの道は続いているのだろうか、そんな疑問が頭を離れない。
一歩踏み出す度にハイカットの軽登山靴は踝(くるぶし)まで一気に砂礫に包まれて急斜面をズリ落ちるように滑っていく...

その滑りで転倒しないように体勢をコントロールする事に全神経を集中するが疲労で重い鉛のようになった大腿四頭筋は言う事を聞かず、重い背中のザックに引っ張られるようにバランスが崩れ、その度に何度もストックでバランスを取り直す。

その砂礫に埋め尽くされた、永遠に続いているかのような錯覚を起こさせる急坂を下り始めてすぐに、それまでの晴天が嘘のように周囲を霧と小雨が覆いつくしてゆき、辺りはあっと言う間に白い闇に包まれて行く...

疲れ果てて休み休み降りてゆく私を時折追い越してゆく人達が居る。
彼らは本当に存在する人なのだろうか?
疲れ果てた私を見てニッコリと微笑んで通り過ぎる人も居る。
その微笑みがいつまでも頭を離れない...

いつの間にか追いつき、そして通り過ぎて行く人たちの姿は10m程も離れると白一面の世界の中で色を失い輪郭の滲んだシルエットとなり深い霧の中に消えてゆく...

彼らは何処から来て何処へ消えて行くだろうか、ふとそんな事を考えしまう自分に苦笑する。
「よし、まだ正気だ」物語を作って遊べる余裕はある。

視覚を奪われること、情報を遮断されることがこれほど人の心を不安定にすると言うことに驚かされるが、反面、自分を客観視できる事に安心もする。

世界中にたった独りだけになったような孤独感と道が間違っているのではないかという不安感に苛(さいな)まれ、所々に点在する「下山道」という標識すら誰かの悪意による設置ではないかとさえ考えてしまうのだ。

何時(いつ)果てるとも無い単純作業が未来永劫と続いてゆく..そんな感覚である。
そう、それは賽(さい)の河原で永遠に石を積み上げ続けねばならない亡者のように...

何故、このルートを下る事になってしまったのか....
「須走口下山道」という標識を辿(たど)って来ただけなのだが、思い起こしてみれば疑問が無い訳ではない。

この急坂を下る前の分岐は、真っ直ぐ行く広いルートは通行止め、分岐手前の岩肌にはゴルフボール大の鈴が取り付けられた夥(おびただ)しい数量の赤い紐が散乱していた。
それはあまりに異様な風景であった。
遠目にもその赤色の散乱模様は異様な風景であった。

その異様で宗教的な情景が頭をよぎる。
「あれは何だったのか...」


辛(かろ)うじて最後まで道を外れなかったのは「下山道」の標識が所々にあったからというのも、皮肉なものである。
なにせ、そのルートは「砂走り」というその名も高き下山ルートなのであった。
そりゃ足も埋まるほど砂礫だらけの道だよね。

疲れて下を向いて歩いていて、もし、下山道の標識を見失ったら?
微妙な角度を向いている分岐近くの標識、少し下山道から外れて張られているロープ、霧の合間に見えた気がする車のような影...
ほんと、単独行動は怖いですね。

山頂で仲間とはぐれて、恐らくは先に下って私を心配しているであろう仲間の元へと富士山を下っている時は、正直そこが有名な「砂走り」だとは知りませんでした。
「砂走り」の「す」の字すら、どこにも無いんです。
ただただ下山道という標識の指し示す方向に歩くとみんなそこへ辿り着くのでしょう。
日本語の話せない、自称「中国人」、女性二人組、子供を連れたお父さん、山慣れた様子の老人達...
不安気に道を尋ねてくる人も居ます。

もうどれくらい歩いたか判らないくらい(実質1時間経過してませんけど)の時間、その足場の悪い砂礫の急坂の中を歩き続けていると、ようやく次の山小屋まで20分という標識...
なんだよ20分って...
まだ20分も歩くのかと思いつつも、きっと心配しているであろう仲間の事を考えると、落胆もしていられません。
力が湧いてきたような気にもなり、先を急ぎます。

その標識から先は急に木々の間の沢のような所を下ります。
段差もあるので、滑りそうな隘路(あいろ)を抜けて出た先は、まだまだ絶望的に続く砂礫の道でした。

もうすぐかな、もうすぐだよね、という気持ちが見させるのか、深い霧の白い闇の先に、ふと先が見通せる一瞬、何かのシルエットが工事車両に、またはオフロード車に見えるのです。
あ、もうじき駐車場だなと何度思わされたことか、錯覚とは怖い物です。
疑心暗鬼とはちょっと違いますが、何もない所に何かを見てしまうという意味では同じです。

「人は、脳というフィルターを通して物を見ているのだよ」という、京極夏彦の「姑獲鳥の夏」という小説に出てくる主人公である中尊寺敦彦の言葉が思い浮かびます。
自分の目に見えているものが現実には存在しない、脳というフィルターが見せている(あるいは見せない)世界を垣間見た気がしました。

いくら歩いても、そんな所には出ないのですから、その度に「こんなにハッキリ見えているのに、あれって幻なんだよなー面白いなぁー」と思いました。
何故、そう見えるのかと、目を凝らして見るのですが、どうしてもそうとしか見えないシルエットです。
ロールシャッハテストとか今やったら何に見えるんだろう?
そんな事も考えたりします。
そりゃ、極限状態で幻が崖の先にあったら歩いて行っちゃうかもしれないよなー

そう言えば、登りでも一度怖い思いをしました。
真っ暗な中を仲間から遅れて歩いている上に、周りに登山者も無く一人の状態で頼る物はやはり「登山道」の標識と登山道の端を示すロープだけです。

それは本7合目だったか8合目だったか失念しましたが、真っ暗な中で右側にあったロープがとぎれました。
LEDヘッドランプの明かりも霧に包まれて視界が悪くその先がどうなっているのか判りません。
唯一の頼りは頭上方向近くに見える山小屋の灯りだけです。

仕方なく灯りを目当てにそのまま登っていきます。
闇の中に浮かび上がったのは左側に「須走口下山道」の標識、右方向に登山道の標識も見えます。
しかし、どこからどこまでが道なのか山肌なのか判りません。
山小屋の灯りがある方向に、歩きやすいところを進みます。

右にも左にも行けるような所を右に登っていくと、ようやく山小屋に辿り着きました。
そこには先に行った仲間達も居ました。
道を見失ってパニックになったら、どこへ進んでいたか判りません。
もし、時間が遅くなって山小屋が消灯時間となり灯りが無かったら..

下山の話に戻りますが、延々と歩いてようやく標識にあった山小屋に着きました。
そこは下山道5合目の山小屋。

そこで休みたい気持ちを抑えて休みも取らずに、あと3kmという標識の言葉を信じて先を急ぎます。
携帯電話はアクシデントで電池切れになっていて使えません(後述します)。
おそらく1時間半くらいみんなの下山から遅れて出発しているので、かなり心配されている事が容易に想像できます。

あと3kmという具体的な数字を目にして(あと20分と言われても体力と速力に依存しますから、距離の実感がありません)、俄然パワーが出てきました。

その山小屋からは林の中のぬかるんだ道を進みます。
幸いにもロープが張ってあるので、迷う心配はありません。
二本ストックを駆使して、速力を上げます。
さっきまで休み休み歩いていて、どんどん抜かされていたのが嘘のようにガンガン歩きます。

この二本ストックが無ければ、恐らく途中で力尽きていたでしょう。
いや、その前に頂上に立てたかどうかも怪しいと思える程に登山の補助となってくれました。

どんどん前を進んでいる人たちを追い抜いていきます。
と言うことは、今までは気力をキープして手を抜いていたとでしょうか。
気力は体力も奪ってしまうのでしょう。
それとも無意識に体力を温存していたのか、どちらにしてもやる気になれば動けるものです。

もう動けませんとグロッキーなふりをしても、水をぶっかけられたり腹に蹴りを入れられたりすれば、まだまだ走れるように...
ちょっと体育会系ですが、似たような物ですね。

その代わり、筋肉は悲鳴を上げてましたが、ガンガン下って神社の横を通り、ようやく須走口5合目のスタート地点の山小屋がある駐車場に辿り着きました
(砂走りの入り口付近にあった多数の紅い紐は神社でも使われていて、その神社の象徴のようなものなんだと判りました。)

少しでも早くみんなを安心させなければと、山小屋のメニューを横目に見つつ先を急ぐ...



「すみません、この山ぶどうソフトクリーム1つください」(ぇ?

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